瀬戸内的!本の紹介⑥
第6回「瀬戸内海論」小西和 著(文会堂)
みなさんは、小西和(こにし かなう)を知っていますか?
彼は1911年(明治44年)に、日本初の瀬戸内海総合辞典「瀬戸内海論」を書いた人。
さらに翌年、国会議員に転身し「国立公園」の必要性を国会で初めて提唱するのです。
時代は大正から昭和へ。急速な近代化にともなう工場や鉄道などの土地開発が全国的に盛んになっていきます。低迷する日本経済の打開策として、外貨を獲得する観光に注目が集まっていました。日本の名勝旧跡の保護とインバウンド観光を目的とした法律の立案・成立に向けて、省庁を横断しての模索が始まります。そして、1931年(昭和6年)「国立公園法」が制定され、1934年(昭和9年)その第一号に瀬戸内海が選ばれました。それは小西が「瀬戸内海論」を書いてから、たった20数年後のこと。
いったい小西和とはどうゆう人物だったのでしょう。
小西は1873年(明治6年)に香川県さぬき市、現在の亀鶴公園の近くで生まれました。幼名は和太郎。15歳で伊予尋常中学(現松山東高)へ入学し、そこで出会った先生の影響で、札幌農学校(現北海道大)に進学します。当時から小西は文才と画才があったようで、北海道1年目の夏、北海道を一周した時の旅行記を、香川新報(現四国新聞)に68回も連載をしていました。その旅行で訪れた粟澤村(現石見沢市)に惹かれて、小西は翌年そこに農場を作ってしまいます。平日は勉学に励み、週末は農場を経営する多忙な生活。1年後、札幌農学校を退学し、21歳の小西は農場経営に専念することを決意するのです。しかし事業の失敗や水害で経営が立ち行かなくなり、残念ながら農場は小西の手から離れていきました。28歳でした。
人生を立て直そうと東京に向かった小西は、30歳のときに東京朝日新聞社の記者になり、社長の特命従軍記者として満州・樺太・シベリアを巡ります。文章の時は「小西南海」、スケッチの時は「松亭生」と一人二役で大いに活躍し、日露戦争の戦況を伝えました。1年余りで日露戦争が終わり帰国した小西は、会社から1年の慰労休暇と特別賞与をもらいます。
そして、ここからが小西さんの面白いところですが、
なぜか、瀬戸内海の学術調査に乗りだすのです。
大陸から日本へ帰る道中、瀬戸内を船で通った経験が発端になったとも言われています。会社復帰後も調査と執筆を続け、6年後、ついに「瀬戸内海論」を刊行。文章やスケッチは小西が手掛け、おそらく装丁やレイアウトも相当こだわったのではないでしょうか。札幌農学校時代の恩師・新渡戸稲造による序文「瀬戸内海は世界の宝石」から始まり、イントロダクションの緒言では宇宙から地球を俯瞰し、その惑星に点在している島々の描写へと続きます。なんて壮大!
さらに、39歳で衆議院議員に初当選。64歳で引退するまで7回当選します。
議員時代に小西がこだわったのが「国立公園法」でした。46歳のときに「外客招致及び待遇に関する案」「史跡名称天然記念物保存に関する案」を議会に提出。そこから議論が活発化し、わが国初の国立公園選定に向けた調査が始まりました。小西は、日本は海洋国であることから瀬戸内の選定が必要だと主張し、座談会や新聞連載などの活動を始めます。当初、屋島と小豆島の寒霞渓を中心とするエリアを想定していたようですが、選定時には備讃瀬戸エリアに拡大され、何回か拡張されて、現在の北九州〜和歌山までの広域に広がりました。国立公園法は、1957年(昭和32年)「自然公園法」という名前でバージョンアップされ、それぞれの自然環境や地域の産業・生活の実情に合わせた地区を設定して、環境の保護や利用の制限を行なっています。現在、日本の国土の14%は自然公園法で定める国立公園や国定公園等です。この間、小西は世界一周旅行や世界議員会議への出席、海外出張などで世界の知見を広げていきました。
小西は引退後、郷里のさぬき市に戻り、74歳で生涯を閉じました。
ずっしりと手に馴染む瑠璃色の美しい本。
世界と瀬戸内を比較する目を持った小西の渾身の一冊です。
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●「こえび新聞」2021年春版
今回の瀬戸内アーカイブメンバーによる特集は「瀬戸内海論」です。
TEXT: 甘利彩子